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MICRONESIAN CANOE

~CRUISING  WORLD JAPAN~ 1994年グラビアより 
​        ​ 文:いしいきよこ

partⅠ 失われゆくシングルアウトリガーカヌーを求めて

風が頬を切った瞬間、アウトリガーがなめらかに海面を滑りだした。
カヌー本体から伸びた腕木の先で浮き沈みしているこの木が、一瞬海面を切るイルカのように見えた。
古来から受け継がれた伝統的手法で、タマナの木やパンノキをくり抜き、削り、
ヤシロープで固定しただけのアウトリガーカヌー。
その昔、太陽と星と風と波のうねりを標として、命がけで海を渡った男たちの航海を支えたカヌーもまた、
命が吹き込まれたイルカのように航海者の水先案内をしたのだろうか。

カヌーで大海を渡り、太平洋に散らばる島じまに住み着いたミクロネシアの人々。
その中には未だに昔ながらのカヌーで航海をする人々がわずかながらも残っているという。
しかしそれはもうほんの一部の島にしかすぎず、伝統的な航海術はおろか、
今ではカヌーさえも失われつつある、と。
私たちはその失われゆく南洋古来の伝統の、ほんのカケラでもいいから拾いたいという願いを込め、
ミクロネシアのなかでも深く伝統を守り抜く最後の島ヤップへと向かった。
■ヤップ島に残った最後のカヌー
 グアムから1時間半、リゾートという言葉からは遠くかけ離れた町、コロニアがこの島の中心地だ。
 町を闊歩する人々の中にはフンドシ姿の男性や、トップレスに腰巻の女性の姿がある。これらの人々は、
ヤップ本島から数百キロ離れた島々から働きに来ている人たちだ。ヤップ島には階級制度があり、離島の人は本島の人よりも階級が低い。しかしその離島民にこそ、優れた航海者が生まれ、著名な船長がいるのも事実だ。
 1975年の沖縄海洋博にヤップ島から全長9メートルほどの伝統カヌーで3000キロの海を渡り沖縄へやってきた<チェチェメニ号>の航海者や、1976年にハワイからタヒチまでの4000キロを航海した<ホクレア号>の船長が、ヤップの離島サタワル島の人であることは有名だ。
 その優れた航海者が住む最後の島々、中央カロリン諸島の離島でも、伝統カヌーを造り、航海術を伝えられるのは、もう年配のわずかな人たちだけとなってしまった。
 
 私たちがヤップ本島に着き、まずカヌーの現状を聞いて驚愕したのが、残存しているその数だ。なんと、伝統を色濃く残すこのヤップでさえ、本島では動かせるカヌーはたったの1艘しかないという。それも遠洋航海用の大型カヌーではなく、数人乗りの中型カヌーのみだ。
 離島には現在でも大型カヌーは数艘残っているそうだが、本島ではとうの昔に姿を消した。中型カヌーも全部で10艘ほどあるが、みな動かすことのないまま朽ち果てている。伝統の島ヤップといえども、モーターボートが生活の主流となっている今では、カヌーが文明の波に押し流されてしまうのは避けきれないのだろう。
 それでも、実際に伝統的な手法で造り上げた、残る1艘のカヌーに乗れるのであれば願ってもないことだ。さっそく手配を整えヤップ本島の北に位置するマープ島のパラウ村へと車を走らせた。
 
 パラウ村では、カヌーはヤップ島特有の男性しか入れない集会場「ファルウ」の中にしまってあった。たくさんのカヌーがあった頃はカヌー小屋にしまっていたそうだが、もうそのカヌー小屋はヤップ本島には1軒もない。
 数人の老人がファルーに集まり相談をしている。カヌーを動かす人を決めているのだろうか。長老のブチュンさんにカヌーの話を聞いてみた。すると、カヌーが島に残っていないのは、文明の波のせいだけではなかった。
「昔ハ、カヌーデ魚ヲ捕ッタリ、町ヘ行ッタリシマシタ。デモ、大東亜戦争ノ時、カヌーハ沢山無クナリマシタ。
 コノカヌーハ戦争ガ終ワッテカラ造リマシタ」
 ミクロネシアの小さな島ヤップも、戦時中は日本の統治下に置かれ、今の長老たちは子供の頃に日本語教育を受けていたのだ。

■大航海者たちの末裔
 真っ白い帆に風を受け、カヌーが音もなく進む。船底に深く身を沈めてみると自分の目の位置に海面があり、波と風の音だけが鼓膜を震わせる。なんという感覚だろう。きっとイルカやクジラたち哺乳類は海面からこんなふうに地上を見ているのだろうか……。
 カヌーはわずかの風でも驚くほど進む。スーッと音もなく海面を滑る。自然を受け入れ、自然に従い、自然のなすがまま動くカヌーの素晴らしい点は、人間が造り上げた乗り物の中で最もエコロジカルであることだ。
 小型カヌーといっても、荷物がなければ大人が6人までは乗れるという。しかし、そんなに乗ってしまうと、タッキングをするときには大変だろうと思う。
 
 カヌーの優れた点は、帆を逆返しにして今まで船尾だった側を船首にし、前進させることができることだ。が、見ているとこれは大変な作業だ。帆は中心部に太い竹を差して全体を止め、船首部の板の穴にもう一方の竹を差し込んで止めてある。タッキングをするときは、その差し込んである竹を前進させる船首へと移動することで行う。
 
​ 長老のブチュンさんとヤップ本島の最後のフンドシ世代を代表するフェティグさんが、ふたりでヨッコイショと帆を返す姿は見ている方にも力が入る。
 これが遠洋航海用の大きな帆で、それの強風の中、細い船べりに足を乗せて行う作業とはとうてい考えられないが、それをやってのけるのだから、航海者というのはまさに偉大だ。
 グンカンドリの二股の尾から思いついたといわれるⅤ型に切れ込んだ船首飾りが、波に大きく揺れた。
 カヌーは船首と船尾が同じ形をしている。昔は航海中にその船首飾りで太陽や星の位置を合わせ、航路を決めたそうだが、今ではその方法はわからないという。時と共に失われていくのは、もはやカヌーだけではない。

■失われゆく伝統の技
「昔ハ車ガ無カッタデショ、ダカラ町ヘ行クノモ水路ヲ通ッテ、カヌーデ行キマシタヨ。イチバン大変ナノハ引潮ノ時ネ、皆デカヌーヲ押シテ、村マデ帰ッテ来マシタ」
 マングローブの生い茂る水路タゲレン運河は、マープ島からコロニアの町へ船で行くための唯一の道だ。「タゲレン」とは、ヤップ語で「船(カヌー)を引く」という意味。
 カヌーのことを懐かしそうに話すマープ島の村に住むフラヨグじいさんは、本島では数少なくなったヤシロープ作りの名人だ。カヌーはこのヤシロープ無しには語れないし、完成しない。
 
 ミクロネシアに伝わるシングルアウトリガー型カヌーは、常に風をアウトリガー側から受けていなければならない。そのため帆走中はカヌーが風下へ吹き倒れないように、アウトリガーは重りの役割も果たしている。
 カヌーにとって重要なアウトリガーを、腕木、船体とつないでいるのがヤシロープだ。他にもカヌー船体のつなぎ目や、アぺフと呼ばれる座敷、帆を張る竹竿など、いたるところで使われている。さらにカヌーだけではなく、ヤップ島の伝統的集会場「ファルウ」や「ペバイ」も、釘ではなくヤシロープを使って建造されているのだ。

「ヤシノ若イ実ヲ海水ニ3カ月浸ケテネ、乾カシテカラ、ホグシテ揃エタラ、コウシテ足ノ上デ、ヨルンデスヨ」
 波の音を背に、フラヨグじいさんが私にヤシロープの縒り方を実践してくれる。話で聞いた時には『足の上で縒る』という意味が理解できずにいたが、言葉で聞くのと実際に自分の手でやってみるのとでは大違いだ。『なるほど、こういうことか』と分かったと同時に、その原理の素晴らしさに感嘆の声がもれた。それはたった1本のロープに数カ月も費やす根気がいる作業だが、これこそ南洋人の知恵の結晶だ。

 縒いで、ほぐして、真っ直ぐに揃えたヤシの繊維を数本にまとめ、指で縒り合わせ紐状にする。その2本を太ももの上で力を入れながら掌で擦り合わせると、編み込んだようなヤシロープができる。さらにヤシ紐を足していけば、つなぎ目のない永遠に長いヤシロープとなるのだ。
 横に座ったフラヨグじいさんの掌の中で少しずつ縒り上がっていくロープは見事だ。
「私はフラヨグさんのように、なかなか上手にキツイ縄ができないですね。これじゃあカヌーは沈んでしまいますね」
 白髭を揺らしながら、フォッ、フォッ、フォッと、深いシワだらけの顔でフラヨグじいさんは笑った。

 ヤシロープもそうだが、伝統的手法のカヌー建造には実に長い歳月がかかる。長老は、「カヌーは原木の樹が育った時間と同じ速さで造るもの」という。
 ヤップ島では、カヌー本体はマホガニーの一種、タマナの大木が使われる。樹を倒すときには呪術師が樹の精霊を呼び出す神聖な儀式を森の中で行う。それから樹は切り倒すのはなく、根を掘り起こしながら、1本1本倒れる方向を考え斧を入れる。一気に切り倒してしまうと、樹自体の重みで傷み、カヌーが造れなくなってしまうそうだ。
「樹ヲ見ルト、コレデドレクライノ大キサノカヌーガ出来ルカ分カリマス。樹ハ生キテイマス。デモ、樹ガ後百年ノ命ナラ、
カヌーニシテ、後何百年モ、私タチト一緒ニ、生キルデショウ」

 伝統カヌーは、生命が宿った生き物だ。一振り一振り手斧で命が吹き込まれた。そして、数千年の昔から勇敢な航海者と共にまだ見ぬ島を目指し、大海原へと命をかけたカヌーこそが民族の源流でもあるのだ。



partⅡ 今に残る大型帆船アウトリガーカヌーの建造技術

風の吹くまま、波の寄せるまま、自然のなすがままに身をゆだね、大海原を渡った男たち。
男たちのコンパスは、記憶に刻み込まれた星と太陽。導くのは風と波、海洋生物、島の匂い……。
太古から命がけで大航海を成しとげた伝統航海術は、人間の五感も、六感をも卓越する、まさに神の業だ。


■海の半球に拡散したカヌー
 海を渡り、オセアニアの島々に拡散した民族を運ぶ足となったカヌー。「canoe」とは西インド諸島のインディオの言葉「canoa」が語源という。
 オセアニアのカヌーには、船体を安定させるため横に張り出した腕木の先に、重りとバランスの役割を果たすアウトリガー(浮き木)をつけたアウトリガーカヌーと、船体を二艘横に連結させたダブルカヌーがあり、さらにアウトリガーカヌーには、アウトリガーが船体の片側だけについているシングルアウトリガーと、アウトリガーが両側につくダブルアウトリガーがある。
 
 カヌーの分布を地域で大きく分けると、シングルアウトリガーはインド洋からインドネシアやニューギニアの一部、メラネシア、ポリネシア、ミクロネシアなどオセアニアのほぼ全域にわたり、ダブルアウトリガーは、西インド洋の一部と、インドネシア、フィリピン、ニューギニアやオーストラリアの一部、などに見られる。
 面白いことに、メラネシアからミクロネシアにかけてダブルアウトリガーは見られない。一方、積載容量と居住性に優るダブルカヌーの分布が集中しているのはポリネシア海域であり、他にメラネシアのフィジーやニューカレドニアとミクロネシアの一部にも存在したといわれる。

■風上へ帆走するカヌーの構造
 時速10ノット以上のスピードがでる優れたカヌーとして知られるミクロネシア・ヤップ島の帆船シングルアウトリガーカヌーは、常に風をアウトリガー側から受けていなければならない。そのため急に風向きが変わることを最も苦手とする。
 カヌーは船首と船尾が同じ形をしており、帆を逆に返すことで船首が船尾に、船尾が船首になる。つまり、ヨットでいうタッキングの技法だ。
 カヌーがV字型の船体をしているのは、横流れを防ぐための工夫であり、外観からは一見、左右対称に見えるシングルアウトリガーカヌーは、じつはアウトリガー側の側舷を湾曲させ左右非対称の船体に造ることで、アウトリガー部分の水抵抗を調節する構造になっている。
 たとえば、手漕ぎで前進させるには、左右均等の力で漕ぐのではなく、アウトリガーがついていない舷側をより漕がなければカヌーは真っ直ぐに進まず、カヌーを操るにもアウトリガーの抵抗で進路がズレることを計算に入れなければならない。
 
 古来アウトリガーカヌーは、東南アジアの近接した島々をダブルアウトリガーカヌーで行き来していた後に、太平洋を航海する能力をもつシングルアウトリガーカヌーへ発達したと考える説もある。ミクロネシアやポリネシアのように、本島と離島といった島々間に距離があり、波や潮流の激しい航路を渡るカヌーとしてはシングルアウトリガーカヌーが最適であったというのだ。

■神と魂の宿る伝統カヌー
 伝統的な手法で造られるカヌーは、建造から航海まですべて島の儀礼に則って行われる。木の掘り起こし作業から建造にいたるまで、男たちが手斧でコツコツと時間をかけて掘り進めていく。島に流れるゆったりとした時間と同じように長い時間をかけてこそ、カヌーに少しずつ魂が吹き込まれていくのだろう。
 
 ヤップの離島では大型の帆船カヌーが完成すると、進水式にはカヌーを腰布(ヤップの離島の女性が織り、腰に巻くベギィまたは
ラバラバと呼ばれる布)やヤシの若葉などで飾り、船大工が船上でカヌーが安全に早く走り、たくさんの魚がとれることを願い、かつ、悪魔払いの呪文を唱える神聖な儀式が執り行われる。
 
 このように伝統的なカヌーの背後にはいつも神の存在がある。
 星や太陽、風や波などの自然現象だけを頼りに、カヌーで数千キロもの航海を成し遂げる伝統的な航海術を今に伝えているのは、もはやミクロネシアのチュークやヤップの離島など中央カロリン諸島の一部と、「クラ交易」で知られるニューギニア沿岸の諸島に残るのみといわれる。

 なかでもヤップの離島サタワル島の伝統航海術に関しては次のような著述がある。
『サタワルでは航海術は秘術であり、誰にでも簡単に教えるわけにはいかない。子供にとって航海術を教えてくれる人は父親もしくは、母方の叔父たちである。父親や叔父たちは前途有望な子供がいると、5、6歳の頃からカヌーに乗せて遠洋航海に連れて行く。航海は大人にとっても危険なので母親は泣いて子供を引き止めるが、父親は強引に連れて行く。幼いときから身体で航海を覚えさせるのである。
 やがて子供が10歳を過ぎると夜に浜辺で伝統的航海術にとって最も重要な星について教えはじめる。さらに15歳頃になると本格的に航海術のすべてが教授されはじめる。その結果、20歳になるまでにかなりの知識を身につけることができる』

危機のコスモロジー/石森秀三著)

 しかし、それで航海術が習得できるわけではない。その後1~4カ月にわたり島の航海術修得儀礼が行われ、それにパスすることによって「ポー」という社会称号が与えられ、さらにその後、幾度かの航海実技に成功して初めて「パヌー」という信頼と尊敬を獲得した称号が与えられるという。こうして航海術を身につけられる航海者は島の男たちのなかでもわずかな存在のようだ。
 
 ヤップでも離島民による航海術は有名だが、本島にもカヌー建造の技術を残し、いくつかの航海術を記憶している長老がいる。
「天気のいい日は太陽も星も見える。しかし、天気が悪いときには波だけを頼りに航海をしなければならない。風が強いと海面に波が
立ち、どちらの方向からうねりがきているのかが分からなくなってしまう。そういうときにはカヌーの船底に溜まった水の動きをよーく見ると、本当のうねりの方向がわかるんです」
 物静かに日本語で語る長老の目には、深い海の真実が見えている。

■偉大なる航海者たち
 伝統カヌーはまさに海の民の結晶である。遠洋航海用の大型帆船カヌーを陸上で間近に見ると、じつに大きい。船体から張り出した2本の長い腕木に大量のヤシロープでくくりつけられた浮き木は、ずっしりとした重量感を漂わせている。釘を1本も使わずにこれほど精巧な建造をおこなえる技術は目を見張るばかりだ。

 航海者は潮や波のうねりを目で見るのではなく、身体で感じ、航路を定めるという。そして気象の変化をいち早く察知し、台風がやって来そうなときには帆を下ろし、流されては困るオールや荷物をヤシロープですべて船体にくくりつけ、皆でカヌーに海水を汲み入れて沈め、船底を上にしてひっくり返した状態のカヌーにつかまり、漂流しながら海中で台風が過ぎ去るのをじっと待つのだという。
 にわかに信じがたいじつにすごい話だ。しかしそれも自然に柔軟に対処する航海者の技の一つなのだろう。
 
 乾季を象徴する季節風に誘われるように、大型帆船カヌーがスルリと海に浮かんだ。するとどうだろう。陸上ではとてつもなく大きく感じたカヌーがまるでリーフのなかに揺れ動く小舟のようだ。その存在は余りにも小さく、危なっかしげに見える。
 コバルトブルーの海にでて帆を揚げ、男たちを乗せたカヌーは、まるで時空の壁を破って出現したようだ。
 
 航海者を乗せたカヌーが大海原へ漕ぎ出し、複雑なうねりや潮流を駆使して紺碧の大海を『意思をもった』木の葉のように舞う様子を想像すると、まさにそれは秘術を超えた神業としか思えない。
 もはや忘れ去られるいっぽうの航路を進み続ける伝統航海。数千年の時を超え、今日まで海の民がこの世に残した最後の航路も、文明という波間に消えてゆくのだろうか。神と命の宿る伝統カヌーが大海原へ繰り出すとき、海もまた、偉大な航海者を待っている気がするのである。


*ミクロネシア、メラネシア、ポリネシアの人々の起源は中国の南西部と言われている。
ミクロネシアへは紀元前2000年~1500年頃伝幡し、移住年代は、西ミクロネシアより中央カロリン諸島の方が古いと考えられている。
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